藤田嗣治展
20世紀前半のパリで愛らしい猫や乳白色の肌の女性を描いてピカソらと並ぶ画壇の花形となった藤田。
1886年東京新宿に生まれた。東京美術学校で西洋美術を学び26歳の時にパリにつき2日め藤田が訪れた場所はピカソのアトリエ
ピカソは若き藤田を快く受け入れた。当時ピカソはキュビズムという新しい絵画に取り組んでいた。日本で想像する以上の絵画の自由さ。新しい形に躊躇なく飛びつく革命
イタリア モディリアーニ ロシア シャガール スペイン ピカソ
彼らと腕を競い合うように絵の腕を磨きついには肩を並べるようになった。
裸婦は西洋絵画においては繰り返し描かれてきた画題の一つですが藤田の裸婦はそれまでとは大きく異なるものでした。
体を縁どる細く伸びやかな線、油絵具ではなく墨を使ってます。
そして何より藤田独自の表現として絶賛されたのが女性の肌。
グランフォンブラン偉大な乳白色の肌と呼ばれ以後藤田の代名詞となりました。
藤田は画面全体に肌の色を塗り込めた特製のカンヴァスを考案します。
そこに輪郭線を加え影を加えて体をうかびあがらせていったのです。
こうした技法を発想したヒント、それは日本の浮世絵にありました。春信、歌麿などが描く浮世絵美人の肌の多くは紙それ自体の色を活かしています。
藤田の画家としての覚悟の言葉。
せっかくこの世に生まれて人まねをしたり俗人を喜ばせるような絵を描いて死んでは天に対しても済まぬこと。
何の真似せもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝となるのである。
2018年10月14日 13:37